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ガスビル食堂からは再建された大阪城や生駒山が望めた |
ガスビル食堂開業当時から、その本格欧風料理とともに、八階の東南に開かれたガラス窓の展望が人気でした。まだ工事が続く御堂筋の向こうには、昭和6年(1931)に市民の力で再建された大阪城がよく見えていました。 |

昭和8年は、都市ガスが、ようやく便利な熱源として家庭に受け入れられはじめた頃。最新のガス器具を揃えた業務用厨房のショールームとして、また市民に開かれた本格欧風料理店として、ガスビル八階に設けられたガスビル食堂には、ガスが開くモダンな近代都市生活と文化を伝えたいという強いメッセージが込められていました。 |
当時最新のガス器具を揃えた
ガスビル食堂の厨房(1933年)
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クリスマスディナーの食事風景(1933年頃)
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ガスビル食堂の献立には、フランス式の料理に、イギリス、イタリア、ギリシャ、スペイン、北欧など、各国の料理が加わっています。開業時、帝国ホテルから招かれた料理長とコックたちは、本物の西洋料理にこだわりながら、自由で形式にとらわれない、独自の「欧風料理」を育てました。
コース料理につくガスビル食堂の生セロリは、昭和8年創業当時から続く名物です。当時の大阪ガス会長片岡直方は、「本物の西洋料理にセルリー(セロリ)は欠かせない」と種子をカリフォルニアから取り寄せ、自ら栽培しました。
秋山徳蔵氏(昭和天皇の料理番)も、その著書『味の散歩』(産経新聞出版局/三樹書房1993年再刊)の中で、この片岡のセロリを絶賛しています。 |
バーカウンターを飾るセロリ(1933年頃)

ガスビル食堂の生セロリ
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昭和8年ガスビル食堂は、初代の料理長を帝国ホテルから招聘しました。
大正11年(1922)、当時築地精養軒にいた彼は、日本を訪れたエドワード・アルバート英国皇太子(後のウインザー公、シンプソン夫人との結婚のため王位を捨てたことで有名)の日本周遊に同行しました。皇太子から「本場にも負けない」と、コンソメの味を誉められたことを、料理長は終生の誇りとしていました。ガスビル食堂には、初代料理長のコンソメやドミグラスソースなど、正統派フランス料理の伝統が今も受け継がれています。
三代目の料理長は、大正一五年に帝国ホテル、東京銀座の風月堂で修行したのち、昭和八年四月に初代料理長の紹介でガスビル食堂にやってきました。昭和三二年に三代目料理長に就任し、戦後のガスビル食堂の発展に力を尽くしました。関西料理界にも貢献し、料理研究家の土井信子さんらも、「ガスビル食堂の先生」と、今も懐かしそうに話されます。
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戦後再開後のガスビル食堂
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織田作之助は、昭和15年(1940)「夫婦善哉」で文壇にデビューします。
将棋好きであった作之助は、ガスビルにあった学士会倶楽部の将棋会に加わるようになりました。
当時傾倒していた大阪文壇の第一人者藤澤桓夫氏に連れられての参加でした。学士会倶楽部の将棋会はハイカラな雰囲気のガスビル食堂で催され、モダンな酒場や本格西洋料理が当時の文化人にもてはやされました。 |