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日本最初の西洋料理は、十六世紀中頃にポルトガル船が長崎や平戸にもたらした南蛮料理。その後、日本の西洋料理の基礎は、唯一開港されていた長崎で築かれました。そして、幕末から明治の初めにかけて、横浜、函館、神戸、築地などの外国人居留地を中心に急速に普及します。
大阪の西洋料理店の始まりは、大阪港が開港し、外国人止宿所が設営された明治元年(1868)といえます。長崎で西洋料理店を開業し、土佐藩とも関係のあった草野丈吉が、五代才助(当時大阪府権判事、外国官権判事)や後藤象二郎(大阪府知事)に呼ばれて、川口居留地の雑居地で「自由亭」を開業し、外国人に食事と宿泊を提供しました。
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大阪・川口居留地を描いた錦絵
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ガスビル8階のガスビル食堂、本格欧風料理が 話題を集め、多くの来訪者で賑わった
(1933年) |
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関東大震災を逃れて関西に移住していた谷崎潤一郎は、大正13年(1924)その随筆「洋食の話」で、「京都にも大坂にも洋食らしい洋食は殆んどない。(中略)上方の人たちは洋食の味を知らないらしい。そのくせ洋食を食うのが好き」だと書いています(『東西味くらべ』ランティエ叢書
角川春樹事務所1998)。確かに居留地を中心に発展した西洋料理の普及は、大阪ではやや遅れていました。
しかし昭和初期には、世界恐慌の不況が続く一方で大阪はますます活況をみせ、ハイカラな洋風好みが広まっていきました。
昭和3年(1928)、北浜にレストランアラスカができました。その本格西洋料理は財界人に愛され、昭和六年には中之島の朝日新聞ビルに本店を移し、やがて関西の西洋料理をリードしていきます。
また昭和4年、小林一三氏(阪急グループ創始者)が日本初のターミナルデパート阪急百貨店を開店し、大食堂の20銭のライスカレーや30銭のランチが大評判になりました。
昭和8年、「大大阪」のシンボルである御堂筋に片岡直方(当時大阪瓦斯会長)がガスビル食堂を開業します。
昭和10年には関一市長の強い要望を受け、大阪の財界人が協力して新大阪ホテル(現リーガロイヤルホテル)を開業します。こうして大阪の西洋料理は昭和初期に大いに発展します。その発展には美食家谷崎潤一郎も一役買ったと考えられます。
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