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大正から昭和初期の時代にモダニズムの花が開いた大阪、
しかし、昭和15年頃から市民生活は次第に不自由になっていきます。 |
御堂筋(ガスビル前)での清掃勤労奉仕
(1939年)
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昭和6年(1931)満州事変、昭和12年には日中戦争が起こり、時局という言葉が使われ戦意高揚がはかられました。食生活でも質素倹約が言われ日の丸弁当が奨励されます。昭和13年に国家総動員法施行。やがて昭和16年12月8日に太平洋戦争開戦。「欲しがりません勝つまでは」がスローガンになりました。 |

昭和14年(1939)、日中戦争下に興亜奉公日が決められ、毎月国民生活規制、戦意高揚がはかられました。ガスビル食堂やガスビル喫茶でも自粛営業を行いました。
翌昭和15年には奢侈品等製造販売制限規則が施行され、食堂では昼食は2円50銭、夕食は5円、一品料理は一品1円を越えるものは販売できなくなり、米食の提供が禁止されました。 |

"「戦争ヲ偲フ日」に付き・・・自粛営業致します"
の張り紙をしたガスビル食堂入口
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戦後、ガスビル食堂は進駐軍に接収され、一般人は立ち入り禁止でした。料理長には進駐軍から給与が支払われました。しかし、ガスビル食堂には接収時代の記録はほとんど残されていません。
ガスビル食堂は、ガスビルが接収解除された昭和27年(1952)5月から仮復旧の工事を始め、12月に営業を再開します。しかし、食料事情はまだ十分には回復せず、戦前と同じように営業ができたのは昭和32年頃からでした。
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昭和45年(1970)の日本万国博覧会には世界各国がパビリオンを出展、総入場者数は6400万人と大盛況でした。それぞれのお国柄を示すレストランも大人気で、日本ガス協会が出展したガスパビリオンのレストラン「ガス灯」でも、ガスビル食堂のシェフ達が中心となってオーブン料理などの洋食を提供しました。その厨房は調理の自動化を実現。今日のガス業務用厨房のモデルとなりました。
レストラン「ガス灯」に設けられたガラス張りで
外から見渡せる厨房(1970年) |

日本万国博覧会のガスパビリオン(1970年)
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