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ガスビル食堂物語
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「ガスビル食堂物語1編〜10編」
> ガスビル界隈の想い出
小川
うちの店(平岡珈琲店)は、昔平野町にありました。昭和八年にガスビルができたときは、近所中を皆、招待してもらったのを覚えています。8階の食堂で食事をして、ビルの中を上から下まで案内してもらいました。華やかでしたよ。
〈出席者〉
後列 西橋 健 氏/石川三郎 氏
前列 小川 浩 氏/成瀬國晴 氏
西橋
うちの店(現長)は、空襲で焼けるまで御堂筋に面してました。「家はどこ?」ときかれても、「ガスビルの南」と言えば、大阪ならだれにでも通じるほど有名でしたね。
石川
私のところは、道修町の角で、親父が自動車を五台置いてハイヤー店をやってました。
成瀬
それはモダンやねえ。僕は千日前の方で育ちましたが、あの頃乗用車はほとんど走ってなかった。
石川
ガスビルのエスカレーターで遊んだ記憶があります。それから広い階段もあって、階段の手すりを滑り台にして(笑)。
ガスビル竣工時の
パンフレット(1933年)
西橋
跨って、ぴゃーっと滑った。絶えず守衛さんを気にしながら(笑)。
小川
当時平野町辺りは 、おしゃれな店が並んでて賑やかやった。カフェがあったし、ブロマイド屋やレコード屋、楽器屋もあった。洋品雑貨でも上等なものを売ってましたねえ。
西橋
ガスビル食堂で食事するのも、すごくハイカラという感じ。地下一階のグリルには私ら子どもも行きました。喫茶とか甘党の店、お汁粉屋さんとか。
石川
私も、親父と一緒にお寿司屋さんに行った。ガスビル食堂にも多分連れて行ってもらったと思います。
小川
当時、アラスカや中央亭、ガスビルくらいでしか西洋料理のフルコースは食べられなかった。ガスビルの下のグリルはちょっと安くてね。サラダが良くて。それでも六〇銭とか六五銭くらい。
西橋
冷房がすごかった。僕が小学一年生の時、昭和一八年ですけど、夏は愛日小学校からの帰りに、毎日ガスビルに入って涼んで帰った(笑)。
石川
当時は冷房なんて、そんなにないですもんねえ。戦時中ですし。
グリルのチラシ
開館当日のショーウインド
1階陳列場のエスカレーター(1933年)
石川ハイヤー
御堂筋開通の頃に道修町に店を構えた。自動車時代の先端を行く事業だったが、やがて戦局悪化にともない車両を軍に供出した(写真は所有車両と運転手、撮影場所不明)。
小川
そういえば、空襲に備えて御堂筋のイチョウとイチョウの間に町内会で防空壕を掘りましたねえ。
西橋
私とこは、空襲の時はいつもガスビルの地下に避難させてもらいました。空襲の後、南の方を見たら、正面が高島屋…。大丸とそごうがあって、少し右見たら四つ橋の電気科学館。ほかは全部焼け野原。
小川
平野町から直接大阪城の天守閣が見えてましたねえ。
西橋
戦後は進駐軍がやって来た。ガスビルも接収された。
小川
この辺は進駐軍の占領地帯やからね、夜になったら歩けへん。MPがパトロールしてました…。
成瀬
話は尽きませんねえ。大阪の中心地として、この地域は時代のいろんな面を受け止めてきたんですね。
成瀬國晴 Kuniharu Naruse
イラストレーター。1936年大阪生まれ。近年はプロ野球や大相撲、上方芸能などを題材に制作。ラジオ・テレビなどでも活躍。著書『なにわ難波のかやくめし』『天神祭』画集など。
※秀吉の時代、御霊神社界隈は、後に石見の国(島根県)の殿様になった亀井家の邸地があったため、通称(古名)亀井町と言われていました。そのため神社の正面路地を亀井裏といいました。
※
イラストマップ作成にあたり、次の資料を参考にさせていただきました。
中村浩著『句碑のある風景』(現代創造社、1976年)P26地図
四元弥寿編「船場復元地図 昭和十年頃 」船場小学校同窓会
平岡珈琲
大正10(1921)年以前には、既に平野町で営業を始め、昭和56年に瓦町に移転。創業以来「珈琲店」として、自家焙煎の味を守り続けている。)
◆大阪市中央区瓦町3丁目6-11
現長
創業100年を越すうなぎ料理の老舗。空襲で店を焼失し、現在の場所に移転した。秘伝のタレを壺に入れ、御堂筋に埋めて、戦禍から守ったという。
◆大阪市中央区道修町3丁目3-2
ランチ
1933年
1円
2003年
2,500円
(税・サ別)
ガスビル食堂には、昭和8年から変わらない伝統メニューが数多くあります。
当時一番人気のあったランチは1円でした。盛り蕎麦一杯の値段は10〜13銭、ランチの値段は盛り蕎麦10杯分、お肉屋さんのコロッケ50個分に相当しました。創業70周年を迎えた現在も、名物セロリ、スープ、メイン(肉or魚)、デザート、コーヒーのついたランチは、お昼の一番人気です。
チョコレートサンデー
1933年
50銭
2003年
600円
(税・サ別)
ビーフステーキ(和牛フィレ)
1933年
1円20銭
2003年
5,800円
(税・サ別)
オニオングラタン
1933年
70銭
1955年
250円
2003年
1,000円
(税・サ別)
慶応三年(1867)に出版された『西洋衣食住』には、既に西洋料理のマナーの記述が見られます。
「西洋人は箸を用ひず。肉類其外の品々、大切に切りて平皿に盛り、銘々の前に竝べたるを右の手に庖丁を以てこれを小さく切り、左の手の肉刺に突掛て食するなり。庖丁の先に物を載せて直に口へ入るゝは、甚不行儀のことゝせり」
著者は片山淳之介、実は船場の適塾に学んだ福沢諭吉です。福沢はさらに「汁ものも矢張平皿に入れ、匕にて吸ふなり。汁もの其外、茶を飲むにも口に音をさすることも不行儀とす」と続けています。
*出典「西洋衣食住―食之部―」
慶応義塾『福沢諭吉全集』第二巻
昭和三四年 発行岩波書店
大阪の中心地「船場」。古い地図では、東は東横堀川、西は西横堀川、北は土佐堀川、南は長堀川で囲まれた東西約1キロ、南北約2キロの長方形の地域を指しました。船場は、町人の町として大いに栄え、教育・文化の先取りに熱心で、江戸から明治にかけて浪花学府といわれた懐徳堂や蘭学塾の適塾など、民間の教育機関から多くの逸材を世に送り出しました。
船場には、明治の初め12の小学校が誕生しましたが、明治20年頃には愛日・集英・船場・汎愛・久宝・浪華の「船場六校」に統合されました。それぞれの学校は、地域の富裕さを反映して、近代的設備を競いました。後に、中等学校への転用や戦争の被害、そして都心部の過疎化などにより、愛日と集英の2校にまとめられていきます。平成2年には、この両校も統合されて開平小学校となり、現在船場の小学校は1校になっています。(赤塚康雄氏 談)
『消えたわが母校
なにわの学校物語』正続つげ書房新社
赤塚康雄 Yasuo Akatsuka
愛日小学校玄関
(『愛日小学校総誌』より)
天理大学教授。1935年京都府生まれ。
大阪市教育研究所、大阪市教育センターを
経て現職。教育史関係の著書多数。