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大阪ガス ガスビル食堂物語


ガスビル食堂物語
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ガスビルと映画

ガスビル南側の張り出し部分は竣工当時からの講演場映写室
昭和11(1936)年、ガスビルにアメリカから最新の本格的35ミリの映写装置2台が輸入されました。専任の映写技師も採用され、ガスビル講演場では、ニュース映画の上映や映画鑑賞会が行われました。入場料は参拾銭でした。また、輸入映画の試写会も頻繁に開催されました。しかし、昭和12年には外国映画の輸入が制限され、昭和16年12月にはアメリカ映画の興行はすべて中止されました。
ガスビル講演場映写室(1936設備)ガスビル講演場映写室
(1936年設備)

外国映画の世界1930年〜60年
ガスビルが開館した頃から、常に日本人の心をとらえてやまなかった外国映画。作家の武部好伸氏に、その動きを概観していただきました。
武部 好伸
武部 好伸
Yoshinobu Takebe

作家。1954年大阪生まれ。大阪大学文学部卒業。読売新聞大阪本社記者を経てフリ−。ケルト・映画・洋酒をテ−マに執筆を続ける。著書『ウイスキ−はアイリッシュ』『ケルト映画紀行』『シネマティ−ニ』『ぜんぶ大阪の映画やねん』ほか。
 

ロマン芳しき戦前のヨーロッパ映画 〜ガスビル講演場での上映作品〜
ガスビル講演場
ガスビル講演場休憩室(1936頃)
 
ガスビル講演場休憩室
(1936年頃)
昭和11年のガスビル映画鑑賞会の案内(「ガスニュース」1936年9月号より)
昭和11年のガスビル
映画鑑賞会の案内
(「ガスニュース」
1936年9月号より)
1930年代
海外旅行など夢のまた夢であった戦前の日本。当時、ヨーロッパ映画は円熟した文化を垣間見られる唯一の“窓”だった。ガスビル講演場で催された映画鑑賞会にはこんな作品が…。
 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『モンパルナスの夜』(1933)。戦前の人気俳優アリ・ボール扮するメグレ警視が活躍する刑事映画の佳作だ。カナダの雄大な自然を背景にフランス系カナダ人の生活を描いた『白き処女地』(1934)もこの監督の手によるもの。ジャン・ギャバンの初主演映画で、彼はこれを機にスター街道をばく進していく。
 1930年代はフランス映画の黄金期。デュヴィヴィエは、『ミモザ館』(1935)のジャック・フェデー、『巴里祭』(1932)のルネ・クレール、『どん底』(1936)のジャン・ルノワールと並ぶ四大巨匠の1人と評され、とりわけ日本で人気が高かった。ルナールの小説を映画化した『にんじん』(1932)、ギャバンの渋い演技が光る『望郷』(1937)など印象深い作品が多い。
 鑑賞会では、ほかにも戦前のドイツ映画界を担ったグスタフ・ウチツキー監督の『ジャン・ダーク』(1934)、ウィーンの社交界を舞台にしたオーストリア映画『郷愁』(1935)などの名作も銀幕に映し出された。
戦後の混乱も収まってきた昭和28年、フランス映画祭参加のため、俳優のジェラール・フィリップとシモーヌ・シモンが来訪。ガスビル前は群衆で埋まった。(大阪ガス社内報「がす燈」1953年12月号より)
戦後の混乱も収まってきた昭和28年、フランス映画祭参加のため、俳優のジェラール・フィリップとシモーヌ・シモンが来訪。ガスビル前は群衆で埋まった。(大阪ガス社内報「がす燈」1953年12月号より)

人々を陶酔させた映画の全盛期  〜戦後、映画の歩み〜
 
イタリア・ネオリアリズム
1940年
第2次大戦直後、世界に衝撃を与えたのがイタリア映画だった。ロベルト・ロッセリーニ監督がドイツ占領下のローマで撮った『無防備都市』(1945)と連合軍のイタリア上陸に絡む出来事を描いた『戦火のかなた』(1946)。厳しい現実を直視し、ロケ撮影と素人俳優の起用によって限りなくドキュメンタリーに近い、その映画はネオリアリズムと呼ばれた。ヴィトリオ・デ・シーカの『靴みがき』(1946)と『自転車泥棒』(1948)、デ・サンティスの『にがい米』(同)も忘れがたい。
 
輝くハリウッド映画
1950年
1950年代、アメリカ映画の〈顔〉はオードリー・ヘップバーンとグレース・ケリーだった。『ローマの休日』(1953)のチャーミングな演技でファンを魅了したヘップバーンは、『麗しのサブリナ』(1954)、『昼下りの情事』(1957)で不動の地位を築いた。一方、のちにモナコ公后となったケリーは、『喝采』(1954)で実力派として認められ、その後、『ダイヤルMを廻せ!』(1954)、『裏窓』(同)、『泥棒成金』(1955)とヒッチコック作品に連続主演、華麗なる演技を披露した。
 
西部劇とヌーヴェル・ヴァーグ
1950年
1958年(昭和33)は映画のピーク。そのころ西部劇が大はやり。ウィリアム・ワイラーの『大いなる西部』(1958)、ジョン・フォードの『騎兵隊』(1959)、ジョン・スタージェスの『荒野の七人』(1960)…。どれも一級の娯楽作だった。フランスでは既成の映画を打ち破るヌーヴェル・ヴァーグの嵐が吹き荒れた。ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(同)…。型破りの映像に観客は度肝を抜かれた。
 
迫力満点の大作映画
1960年
すでにスクリーンの大型化が定着し、観客は横長ワイドの映像に酔いしれた。その動きに乗じ、スペクタクル巨編『ベン・ハー』(1959)を皮切りに、『史上最大の作戦』(1962)、『アラビアのロレンス』(同)、『大脱走』(1963)、『ドクトル・ジバゴ』(1965)など膨大な製作費を投じた戦争・歴史大作が相次いで創られた。しかしテレビの普及と娯楽の多様化の影響で、映画人気にじわじわと翳りが見え始め、その後、映画は混迷の時代の中を摸索していくことになる。




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