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  大阪ガス ガスビル食堂物語


ガスビル食堂物語
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バラエティ豊かな食の楽しみ

昭和7年(1932)頃から、昭和恐慌を脱して、大阪ではモダンな都市文化が花開きました。
バラエティー豊かなガスビルの食の楽しみ
 
ガスビル講演場でヨーロッパ映画を堪能した人たちのもう一つの楽しみは、ガスビルでの食事でした。ガスビル食堂の本格フランス料理、モダンなガスビル喫茶、お寿司や甘党の店など、大いに賑わいました。昭和11年(1936)には、地下一階にグリルが新設されました。「グリル」は、当時非常に目新しい言葉で、グリルの開業によって本格的な洋食をくつろいだ雰囲気で食べることができるようになりました。

地下1階グリル 寿司店でのお食事風景 ガスビル まんじゅうの包装紙 寿司店チラシ
地下1階グリル 寿司店でのお食事風景 ガスビル
まんじゅうの包装紙
寿司店チラシ

ご寮人(りょん)さん、娘(いと)さんにも愛されたガスビル食堂のアラカルトメニュー
アイスクリーム ビーフカレー ビーフカツサンドイッチ
アイスクリーム
400円(税・サ別)
ビーフカレー
1,700円(税・サ別)
ビフカツサンドイッチ
 2,200円(税・サ別)
 
昭和15年(1940)頃から、市民生活は、だんだん不自由になっていきます。
 
御堂筋(ガスビル前)での清掃勤労奉仕(1939)
御堂筋(ガスビル前)での清掃勤労奉仕(1939年)
モダンな都市生活にかげり
昭和6年(1931)満州事変、昭和12年には日中戦争が起こり日の丸弁当が奨励されます。時局という言葉が使われ戦意高揚がはかられました。
 昭和13年国家総動員法施行。やがて昭和16年12月8日太平洋戦争が勃発し、「欲しがりません勝つまでは」がスローガンになります。
”「戦場ヲ偲フ日」に付き・・・自粛営業致します”の張り紙をしたガスビル食堂入り口
“「戦場ヲ偲フ日」に付き…自粛営業致します”の張り紙をしたガスビル食堂入口



銃後のガスビル食堂
昭和14年(1939)、日中戦争下に興亜奉公日が決められ、毎月国民生活規制、戦意高揚がはかられました。ガスビル食堂やガスビル喫茶も自粛営業を行いました。
翌昭和15年には、奢侈品等製造販売制限規則が施行され、食堂では昼食は2円50銭、夕食は5円、一品料理は一品1円を越えるものは販売できなくなり、米食の提供が禁止されました。
 
ガスビルディテール
建築家・安井武雄(1884年〜1955年)設計のガスビル(現南館)は、過去の建築様式や流行にこだわらず、使用目的と構造に基づいた「自由様式」として完成しました。
主階段
主階段
主階段(螺旋階段)
ガス器具陳列場内に設けられた主階段。採光中庭より、ガラスブロックを通して柔らかな明るい光が降り注ぎ、ゆったりとした螺旋階段は、1階、2階、地下1階の3フロアのショールームを繋いでいました。
2階横連窓
2階横連窓
横連窓
2階の横連窓は、都市生活に適した実用的でシンプルな直線と円弧を組み合わせたデザインで構成され、サッシは竣工当時まだ珍しかったステンレススチールをドイツから輸入したものです。
コロネード(柱廊)
1階コロネード
1階コロネード
1、2階の外壁には、勿来(なこそ)産黒御影石(花崗岩)と稲田産白御影石が張られ、陳列場玄関とデッキガラスのはめ込まれたコロネード(柱廊)は、バリアフリーでビルと歩道を一体化し、気軽に入れる設計になっています。
非常階段と1階ガレージ
非常階段と1階ガレージ
非常階段
2階講演場の非常時の避難経路として、講演場内部より直接屋外に避難できるよう、道路に面してバルコニーと非常階段が設けられ、安全面にも万全の配慮がなされていました。
1階エレベーターホール
1階エレベーターホール

エレベーターホール
エレベーターホールの一部(地下1〜4階)は、壁にイタリア産のトラバーチン(大理石)を張り、床には琉球産トラバーチンが敷かれています。現在も昭和8年(1933)竣工当時の面影を残しています。
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