大正時代には、「銀ブラ」に対して「平ブラ」という言葉もあったというほど、平野町界隈は賑わっていました。明治17年から大正15年(1884〜1926)までは、御霊神社境内に文楽座が興行し、多数の観客を集めていました。境内には錦影絵、幻燈、のぞきからくりなどがあり、すし、天ぷらなど食べ物屋も繁盛していました。また1の日、6の日には夜店が出て、浪花名物の一つと言われていたそうです。しかし明治の終わり頃には、娯楽内容が変化(活動写真などの流行)し、さらに大正15年の秋に、御霊文楽座が全焼し、人の流れは南に移り始めました。
(伊勢田史郎さん談)
御霊神社とともに
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御霊神社宮司 園 文夫さんとお母様 |
昭和10年に京都の聖護院八ツ橋総本店から嫁がれた、御霊神社先代宮司の奥様、園貞尾さんは、当時の平野町界隈の様子を「賑やかで賑やかで、煌々と明かりがついて、真夜中でもお店が開いていました」と当時の驚きをもって語られます。
昭和20年3月の大阪大空襲で御霊神社周辺はすっかり焼けてしまいました。疎開先から戻られた現宮司の文夫さんは、「冷房のきいたガスビルが、子どもの頃の遊び場でした」と言われます。
昭和32年、御霊神社は、神社としては日本で初めて鉄筋コンクリート造で再建されました。