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大阪ガス ガスビル食堂物語


ガスビル食堂物語
5
物語と歴史、アートでリニューアル

ガスビル食堂おしゃれでレトロにリニューアル
リニューアルされたガスビル食堂
リニューアルされたガスビル食堂
 
 
平成13年、ガスビル食堂は内装をリニューアルしました。リニューアルにあたっては、ガスビル食堂に残された写真や絵画をもとに、開業当時の面影を復元いたしました。
開業当時のガスビル食堂を描いた絵画
開業当時のガスビル食堂を描いた絵画
内装、テーブルウェア類の監修は、沖縄サミットで夕食会のテーブル装飾を担当された、著名なコーディネーター木村ふみ氏にお願いしました。

店内イメージ店内はよりシックになったと概ねご好評をいただいています。若いお客さまにはレトロ感が新鮮なようです。また年配のお客さまは、廊下の創業当時の写真を懐かしげにご覧になっています。


ガス灯とすずらん
すずらん  
  すずらん
 
すずらんは、大阪ガス創業当時のガスの主な用途であったガス灯のホヤにその花姿が似ている事から、大阪ガスの意匠として広く使われてきました。すずらんは、大阪ガスのシンボルフラワーなのです。ガスビル食堂にも食器や灰皿、衝立てなど数多くのすずらんの模様が残されています。




お皿のデザイン木村ふみ氏デザインのプレート
 今回のリニューアルにあわせて木村ふみ氏がデザインしたお皿にも、すずらんの花が意匠化されています。

21世紀への伝言
木村ふみさん
木村 ふみ
(株)エデュウス代表取締役。ホテル、レストラン、旅館等のテーブルトップに留まらず、ディレクションを含めトータルな食環境プロデューサーとして活動。
 
ガスビル食堂のリニューアルでは、ガスビルが大阪の街に出現した1933年の驚きをどう再現するのかがポイントでした。食堂のエントランスからホワイエにかけては、その「物語と歴史」を表現し、また「アート」での展開を試みました。ホールは30年代を感じさせるモチーフをモダンにデザインし、椅子、食器などにも展開。全体のコーディネイトはさりげなく、空間の色調も落ち着いた茶系に統一しました。メニュー内容も食材にこだわったものとしています。
 この食堂が、訪れる方の記憶の1ページとなるように、そして、この建物と空間と味が語り継がれる物語となるようにとの願いを託しています。

明治大正期の平野町界隈
御霊神社の賑わい
御霊神社
伊勢田 志郎氏
伊勢田 史郎
詩人、郷土史研究家。1929年神戸生まれ。著書に『熊野詩集』、『船場物語』ほか多数。
 
大正時代には、「銀ブラ」に対して「平ブラ」という言葉もあったというほど、平野町界隈は賑わっていました。明治17年から大正15年(1884〜1926)までは、御霊神社境内に文楽座が興行し、多数の観客を集めていました。境内には錦影絵、幻燈、のぞきからくりなどがあり、すし、天ぷらなど食べ物屋も繁盛していました。また1の日、6の日には夜店が出て、浪花名物の一つと言われていたそうです。しかし明治の終わり頃には、娯楽内容が変化(活動写真などの流行)し、さらに大正15年の秋に、御霊文楽座が全焼し、人の流れは南に移り始めました。 (伊勢田史郎さん談)



御霊神社とともに

園 文夫さん お母様
御霊神社宮司 園 文夫さんとお母様
  昭和10年に京都の聖護院八ツ橋総本店から嫁がれた、御霊神社先代宮司の奥様、園貞尾さんは、当時の平野町界隈の様子を「賑やかで賑やかで、煌々と明かりがついて、真夜中でもお店が開いていました」と当時の驚きをもって語られます。
昭和20年3月の大阪大空襲で御霊神社周辺はすっかり焼けてしまいました。疎開先から戻られた現宮司の文夫さんは、「冷房のきいたガスビルが、子どもの頃の遊び場でした」と言われます。
 昭和32年、御霊神社は、神社としては日本で初めて鉄筋コンクリート造で再建されました。

明治大正期の御堂筋
明治大正期の御堂筋の地図
旧御堂筋は、北は淡路町で突き当たり一、二間東へ折れて淀屋橋筋につながった。(図は大正14年大阪市全図から作成)
 
明治大正期に御堂筋と呼ばれていたのは、北は淡路町から南は長堀川の浜までの大阪市の中心・船場を通る三間幅(約5.45m)の街路でした。当時南北の筋はいわば裏通りで、主だった建物は平野町通り、高麗橋通りなど東西の通りに面していました。御堂筋には人形問屋・履き物問屋など商家が密集していたといいます。(参考「思い起こす御堂筋」米谷修遺稿集)




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