関東大震災を逃れて関西に移住していた谷崎潤一郎は、大正13年(1924)その随筆「洋食の話」で、「京都にも大坂にも洋食らしい洋食は殆んどない。(中略)上方の人たちは洋食の味を知らないらしい。そのくせ洋食を食うのが好き」だと書いています(『東西味くらべ』ランティエ叢書 角川春樹事務所 1998)。確かに居留地を中心に発展した西洋料理の普及は、大阪ではやや遅れていました。
そして昭和初期の大阪は、世界恐慌の不況が続く一方でますます活況をみせ、ハイカラな洋風好みが広まっていました。
昭和3年(1928)、北浜にレストランアラスカができました。その本格西洋料理は財界人に愛され、昭和6年には中之島の朝日新聞ビルに本店を移し、やがて関西の西洋料理をリードしていきます。

片岡直方 |
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また昭和4年、小林一三氏(阪急グループ創始者)が日本初のターミナルデパート阪急百貨店を開店し、大食堂の20銭のライスカレーや30銭のランチが大評判になりました。
昭和8年(1933)、「大大阪」のシンボルである御堂筋に片岡直方(当時大阪瓦斯会長)がガスビル食堂を開業します。
昭和10年には関一市長の強い要望を受け、大阪の財界人が協力して新大阪ホテル(現リーガロイヤルホテル)を開業します。こうして大阪の西洋料理は昭和初期に大いに発展します。その発展には美食家谷崎潤一郎も一役買ったと考えられます。