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  大阪ガス ガスビル食堂物語


ガスビルとの出合い
大谷 晃一(作家)
大谷 晃一(作家)

大阪の町を颯爽と歩く織田作之助
大阪の町を颯爽と歩く
織田作之助(1940年)

 ときに昭和15年(1940)である。ガスビルのある御堂筋は平野町かいわいを、中折れ帽に着流しの青年が肩で風を切って闊歩していた。新進作家の織田作之助だった。数え二十八歳。ガスビルの七階に学士会倶楽部があって、大野源一八段らが将棋を教えに来ていた。作之助はよく指しにやって来る。なかなか強かった。

 彼はこのビルに出入りするのが、嬉しくて仕方がない。ガスビルは近代大阪のシンボルであった。モダンでリッチである。文化人が集う場所だった。しかも、学士会倶楽部である。彼は大阪の下町の貧乏な家庭に生まれた。旧制第三高等学校(後京大教養課程)を途中で放校となり、大学へは行けなかった。それが、この春に小説「夫婦善哉」によって世に出ることができた。ガスビル食堂でカレーライスを食べ、珈琲を飲む。

 これが、作之助の伝記を書くために調べ上げた事実である。


大谷晃一著『織田作之助』
大谷晃一著
『織田作之助』
(沖積舎)
 
その15年、私(大谷)は天王寺商業学校(いま、天王寺商高)の4年生であった。映画、とくにフランス映画に傾倒していた。あのころ、映画などは禁制だった。見つかれば停学処分を食らう。その危険を冒して、ガスビルや朝日会館で映画を見た。この二つは当時の大阪での西欧文化の窓口であった。
 いまの高校生に当たるから、朝日会館の「アラスカ」ヘはとても行けない。が、ガスビル食堂はそんなに高くなかったと思う。ハヤシライスを友達と食べた記憶がある。

 話は戦後になる。私は朝日新聞大阪学芸部の放送・芸能記者になっている。昭和32年(1957)である。その最初の仕事が漫才の光晴・夢若のインタビューだった。ガスビルでの公開録音の話題になった。客の老人が高いびきをかき始めた。みな、困った。ところが、その人は前へばったりと倒れた。脳出血で、間もなく亡くなった。「気の毒やけど、笑いながら天国へ行かはったんや」が、この記事のオチになった。まだ公開録音の場所も少なかった時代である。ガスビルは大阪文化のためにいろんな役割を果たしている。

大谷晃一(おおたに・こういち)
1923年、大阪生まれ。朝日新聞編集委員、帝塚山学院大学教授、同じく学長を経て、現在、同大学名誉教授。日本エッセイストクラブ賞、大阪芸術賞などを受賞。『織田作之助』『評伝梶井基次郎』『井原西鶴』『上田秋成』『大阪学』など著書多数。

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