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大阪の町を颯爽と歩く
織田作之助(1940年) |
ときに昭和15年(1940)である。ガスビルのある御堂筋は平野町かいわいを、中折れ帽に着流しの青年が肩で風を切って闊歩していた。新進作家の織田作之助だった。数え二十八歳。ガスビルの七階に学士会倶楽部があって、大野源一八段らが将棋を教えに来ていた。作之助はよく指しにやって来る。なかなか強かった。
彼はこのビルに出入りするのが、嬉しくて仕方がない。ガスビルは近代大阪のシンボルであった。モダンでリッチである。文化人が集う場所だった。しかも、学士会倶楽部である。彼は大阪の下町の貧乏な家庭に生まれた。旧制第三高等学校(後京大教養課程)を途中で放校となり、大学へは行けなかった。それが、この春に小説「夫婦善哉」によって世に出ることができた。ガスビル食堂でカレーライスを食べ、珈琲を飲む。
これが、作之助の伝記を書くために調べ上げた事実である。
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