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  大阪ガス ガスビル食堂物語


想い出とロマンに満ちたガスビル
巽 悟朗(大阪証券取引所社長)
巽 悟朗(大阪証券取引所社長)

御堂筋が完成した頃のガスビル
御堂筋が完成した頃のガスビル

 私は船場育ちです。小さい頃は北久宝寺三丁目に住んでいて、赤い自転車を得意になって乗り回していました。当時は付近にあまり高いビルはなかったので、走りながら目当てにしていたのがガスビルです。ガスビルで焼芋の実演販売をしていたこともよく覚えています。大きな機械で焼いている様子がおもしろいので、買った後でもずっと眺めていました。実演販売には、スイートポテトもあったし、ガスビル饅頭もありました。
 弁護士だった父は、私が7歳のときに他界しました。父との想い出もガスビルにあります。父は、散歩の途中に食事をするのが好きで、父に連れられてガスビル食堂や新大阪ホテル(現リーガロイヤルホテル)のキャッスルルーム、北浜三越の特別食堂(8階)などの洋食堂にも行きました。味覚を植え付けるのは子どもの頃が大事だといって、父は、私にいつも大人と同じものを食べさせていました。自分で肉を切るのに椅子の上に立ち上がって叱られた想い出もあります。ガスビル食堂の料理はボリュームがあり、その頃の印象では、お肉も自分の頭ほどあるような気がしていました。私は、孫にも父がしてくれたように、本物の味覚を伝えたいと思っています。

適塾
適塾/江戸期末に緒方洪庵が開設した蘭学医学塾。福沢諭吉や大村益次郎をはじめ、幕末から明治時代にかけて活躍した数多くの人材を輩出した。

 ガスビルは歴史的・文化的な香りのする建物です。今でも前を通ると、いつも昔のことや父のことを思い出します。ガスビル講演場で指揮をされた若き※1朝比奈隆さん、ガスビルによく出入りしていた※2日野草城さんの新興俳句、ガスビルは私にとってロマンに満ちたビルです。

 ガスビル界隈には、北御堂、南御堂、芭蕉翁終焉の地、適塾など歴史的なものが残っています。適塾には今もよく行きます。そこには維新の精神がそのまま残っているような気がします。それが好きで縁側に座っています。私はやはり大阪が好きで、趣味は何だと聞かれたら「大阪」だと答えます。これからの大阪は、大阪のものをもっと打ち出していくべきです。大阪には他に誇れる大阪のおもしろさがあるのだから。(談)


※ 1
朝比奈 隆(あさひな・たかし 1908〜2001年)
指揮者。京都大学在学中にエマヌエル・メッテル氏に師事。その後、ガスビル講演場でもNHKの合唱等を指揮。昭和15年新交響楽団を指揮し本格的にデビュー。戦後の22年に関西交響楽団、35年に大阪フィルハーモニー交響楽団を結成し常任指揮者・総監督に就任。平成元年文化功労者、6年文化勲章受章。
※ 2
日野 草城(ひの・そうじょう 1901〜1956年)
俳人。京都大学在学中から認められ、昭和4年「ホトトギス」同人となる。その後、新興俳句運動を指導し、10年に主宰誌「旗艦」を創刊。発行事務局はガスビル内にあった。連作俳句、無季俳句を主張したため「ホトトギス」を除名される。15年京大俳句事件で「旗艦」廃刊。戦後の24年から「青玄」を主宰。


巽 悟朗(たつみ・ごろう)
1935(昭和10)年大阪市生まれ。1958年同志社大学卒業。61年に光世証券を創業。大阪証券取引所理事などを経て、2001年4月大阪証券取引所社長に就任。

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