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  大阪ガス ガスビル食堂物語


ガスビル講演場と私の青春
竹本 晧造氏
竹本 晧造(元吉本文芸館館長)

エンタツ・アチャコ
ガスビル講演場の舞台に立つエンタツ・アチャコ
「ガスビル趣味の会」より。(1934年頃)
  吉本興業の資料の中に漫才を演じる1枚の写真がある。演者は、今日の吉本興業隆盛に貢献した「横山エンタツ・花菱アチャコ」の舞台写真である。彼等のプロマイドは売りたいほどあっても2人の高座写真は珍しく、当社にとっては貴重写真である。しかし演じている舞台が何処なのか、長い間皆目わからなかった。その舞台こそ、懐かしや「ガスビル」の舞台だと分かったのが昨年暮れのことである。たまたま大阪ガスから資料提供をうけて目が点になった。ガスビルだった!。2人の漫才の内容はわからないが、コンビの出演だから昭和9年頃の筈である。嬉しかった。
二代目 桂春団治
二代目 桂春団治
第42回例会「ガスビル趣味の会」より。(1937年)



 さて、私もガスビルに助けられたことがある。それは、戦後の洋画の試写会である。映画を見たくても小遣いにピーピーいっていた頃だったから、無料整理券の獲得に知恵を絞ったものである。入場係の女の子を恋人にすればいいなどという不届きな親友もいた。石田京三というやつ。こいつこそ後の「花紀京」である。

 ガスビル食堂での食事は、たとえ水を飲んで椅子に座っているだけでも、舞い上がってしまうリッチ感を味わせてくれた。まして、そこで「ハイライ(ハヤシライス)」「ライスカレー」が食せるなんて、天下を取った思いであった。だから、カレー食べたさに師の内海重典先生*を何とかして試写会やらジャズコンサートに誘い、開演前か、終了時に必ずカレーをねだった。さすがに4回目ぐらいで、この奇策?も見破られた。もう1人の師長沖一先生*にビールを頂いた時などは有頂天とはこのことだと知った。

約600名収容のお洒落なホール
講演場内部は2・3・4階の三層が吹き抜け、約600名収容のお洒落なホール。(1933年)

 
テレビ界の怪物「澤田隆治」*が、ガスビル講演場でABCラジオ「お笑い人生修業」の公開録音中、かぶりつきの老人がグーグーいびきをかいて寝るので、スタッフに注意をさせたところ、急病のためだったという笑えない話も聞いた。
ともあれ、ガスビル講演場こそ戦前・戦後のてんやわんやの時代を通じて、各種芸能はいうに及ばず、文化活動・大阪経済圏の癒し空間として、大阪が誇るべき、また当時の大阪では目をみはるモダンシティーだった。






*内海重典
(うつみ・しげのり 1915―1999)

昭和14年宝塚歌劇団入団。演出家、劇作家として活躍。春日野八千代、乙羽信子の「南の哀愁」、越路吹雪の「ブギウギ巴里」から、「嵐が丘」「愛限りなく」まで多数の作品を手がけた。元宝塚歌劇団名誉理事。
*長沖 一
(ながおき・まこと 1904―1976)

昭和13年から吉本文芸部で活動後、NHKラジオの人気番組「アチャコ青春手帳」「お父さんはお人好し」などの放送作家として活躍。著書に「大阪の女」「肉体交響楽」など。元帝塚山学院短期大学学長。
*澤田隆治
(さわだ・たかはる)

神戸大学卒業後、朝日放送入社。テレビプロデューサーとして「スチャラカ社員」「てなもんや三度笠」などをヒットさせ、昭和54年から「花王名人劇場」を制作、漫才ブームの仕掛人となった。

竹本浩三(たけもと・こうぞう)
吉本文芸部・演出家、帝京平成大学教授、帝塚山大学講師、元吉本文芸館館長。昭和34年から吉本新喜劇創設に参加、作・演出者として吉本新喜劇の基礎を築く。「爆笑寄席」「パンチDEデート」他テレビ作品も多数。著書に「笑売人 林正之助伝―吉本興業を創った男」など。

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