70歳を越えた私であるが、この頃、自分の幼少時を思い出していろいろのことが懐かしく回想される。
昭和10年前後は大阪の昭和モダニズムが華やかに満開になった時期だったのではなかろうか。それを象徴するのは、時代の先端を行く美しい近代的なビルが次々に建設されたことである。中之島の新朝日ビル、新大阪ホテル、御堂筋心斎橋のそごう百貨店、梅田の北野劇場、阿倍野橋の大鉄百貨店(現近鉄)などは、それまでの市中のビル群と違って、より洗練された新しいモダンな感覚を持っていた。その頃、私はまだ小学校低学年であったが、両親に連れられてそうした場所に行った時に、幼な心にもきわめて新鮮な緊張感を味わったものである。
肥田氏のコレクションより
昭和8年の「ガスビル趣味の会」
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平野町のガスビルもまたその代表的な一つであった。白亜の颯爽とした姿がなんとも垢ぬけた際立った美しさで子供の眼に映った。「ガスビル」という言葉にも特別の新しい響きが伴っていた。あの頃、ガスビルが子供用の特製の菓子を発売していたのではなかったか。ガス器具で焼いたおいしい一口カステラが箱一杯につまっていて、つねには食べられない高級感のあったことが、かすかに記憶にある。あるいは私の思い違いか。
数年前に、姉と亡くなった母の思い出を話し合った。「小学校の時に作ってもろた弁当が綺麗やったナア」と私。「お母さん、ガスビルの料理教室で習ろてはったから、料理が上手やった」と姉。「エエ、それは知らなんだ」と返事する私であった。
小学校2年生の時であったろうか。母はいつも綺麗に盛り付けた弁当を作ってくれた。おいしいおかずに、パセリをあしらい、食後の果物も林檎を兎の耳にむいて添えてある。パセリと林檎の皮を食べのこし、担任の先生に「全部食べないといけません」と言われベソをかいたことを思い出す。昭和8年にガスビルが竣工した頃から料理講座が開かれ、その講習に母が通っていたことは、生前には直接にいちども聴いたことなく、50年も60年も経てから、私ははじめて知ったようなことである。ガスビルに対して、またひとしお懐かしい思いが増すのである。大阪の名建築がつぎつぎ姿を消していくきびしい時代の流れの中で、ガスビルが新鮮な姿のままで、いつまでもいつまでも健在でいてほしいと、切に願われる。