このページの本文へ移動します。
総合TOP >企業情報 > ガスビル食堂物語 > 「ガスビル食堂物語1編〜10編」 > ガスビルの想い出 > ガスビルと私
  大阪ガス ガスビル食堂物語


ガスビルと私
難波 利三氏
難波 利三(作家)

 
ガスビルは昭和8年(1933)に誕生しているから、私より3つ兄貴分になる。
見たところ、外観はまだまだ若々しく、今世紀も充分、生き長らえそうである。

昭和36年のガスビル
昭和36年頃のガスビル
  私が初めてガスビルと出会ったのは、昭和36年(1961)の2月だった。大学中退を余儀なくされ、新聞の三行広告で探したプラスチック関係の業界新聞社を訪ねて行く直前、電話で確かめると、
「ガスビルの角を西に曲がって、2つ目の筋を北へ50メートルほど歩くと、左側にWビルというのがあります。その2階です」
 と女性の声が教えてくれた。だが、東西南北が覚束ない上、ガスビル自体が分からず、
「その、ガスビルというのは、どこですか」と訊き返す私に、電話の向こうは、しばし沈黙し、
「御堂筋の、平野町の角です」
 と不機嫌そうに答えた。恐らく、ガスビルも知らない田舎者めと、呆れていたのだろう。島根県の田舎から大阪へ出て来て2年目のことだが、その辺りをうろつくのは初めてだった。

 ガスビルはすぐ分かった。当時界隈では一番大きく、美しく、ひときわ目立った。それに比べてWビルは、ビルとは名ばかりの3階建ての、今にも崩れそうなオンボロで、幻滅した覚えがある。業界新聞社への行き帰りに通るガスビルの、ショールームに並ぶ最新型の器具類を、羨望のまなざしで眺めるだけで、妙な威圧感を覚え、容易に建物の中には入れなかった。

 ようやく入れたのは、今から7、8年前、何かの講演に呼ばれ、喋る前に関係者らに、8階のレストランで昼食をご馳走になったのが最初である。
(ああ、やっと入れたんだ)
 と、そのとき、思った。レトロな雰囲気が好ましく、こんな空間がまだあるのかと、嬉しくなった。どのテーブルも満員の盛況ぶりで、私は何を食べたのか、ナイフとフォークを使ったから、多分、洋食だろう。

現在のガスビル
現在のガスビル
  ガスビルは歴史的にも、建築学的にも、貴重な存在らしい。加えてレストランの味も、食いもの道楽の大阪人の味覚をリードしてきたのに違いなく、そういう意味では食文化の発展に大いに貢献してきたと言える。建物共々、これからも、そうあり続けて欲しいと願う。
  ところで近々、今度は自前で食べに行きたいと考えている。


難波利三(なんば・としぞう)
1936年島根県生まれ。1972年に「地虫」でオール読物新人賞。1984年「てんのじ村」で直木賞を受賞。他に「天皇の座布団」「大阪笑人物語」など多数の著作がある。
ガスビル食堂物語TOPへ
このページのトップへ戻る