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  大阪ガス ガスビル食堂物語


青春の碑・ガスビル
藤本 義一氏
藤本 義一(作家)

 ガスビルと地下鉄の話は幼い頃から記憶の深いあたりに棲(す)みついた。
 「ヨシカズ(私の本名)、お前の生れた年に地下鉄が開通し、ガスビルが建った」
 4、5歳のあたりから父がいったものだ。正月の元旦とか誕生日にいうのである。

ガスビル1階ショーウインドー
昭和8年のガスビル1階ショーウインドー
 昭和8年(1933)1月生れの私の同僚が地下鉄という大阪初の鉄道とガスビルといわれるビルディングのように思えた。

 ミナミの難波新地で店をやっていた大阪商人の父にとって、この地下鉄道と御堂筋に建ったビルディングがきっと新しき商都大阪の躍進のシンボルのように思えたのだろう。

 戦前、御堂筋を北に向い、白と黒の鮮やかなコントラストで聳え建つガスビルを見た記憶が、かすかにある。堂島川のあたり一面がレンゲ畑だったように思う。日本の風景が一変してヨーロッパの風景に見えたものだ。

 そして空襲、瓦礫の大阪市街、闇市が印象に残る。御堂筋の風景と一緒にガスビルの印象は一挙に消えていく。

 それから8年後、大学生の私にとって、ガスビルの食堂が思い出深いものとなって迫ってくる。

昭和30年頃の御堂筋とガスビル
昭和30年頃の御堂筋とガスビル
 21歳の頃、ドラマに興味を持ち、ラジオドラマを唯一の生甲斐に感じ、せっせと懸賞募集に応募し、1年ぐらいで入選しはじめる。入選すると、ぼつぼつと新人放送作家に原稿依頼がやってくる。といえば聞こえはいいが、その実は原稿を持ち込むのだ。主に新日本放送局に持ち込んだ。阪急百貨店の最上階に局があり、採用されれば原稿料が入る。難波からバスに乗って梅田に向う。採用されると千円になる。バイト料4日分の金額だった。採用されると、経理課で原稿料を受け取り、満たされた気分で難波の南海電車に向う。そして、ガスビルの食堂に足を運んで、西洋料理の一品を注文するのが無上の喜びであり、最高の贅沢であった。昭和30年の頃だという記憶があるが、なにを食べたのかがわからない。たしかカレーが80円だったと思うが、これも定かではない。アイスクリームが20円で珈琲が30円だったと思う。原稿が採用されない時は、歩くのも辛くて、バスに乗ったものである。

 こんなほろ苦くて、そして優雅な気分を味あわせてくれたのがガスビルである。青春の記念碑がガスビルなのだ。時に1万円の原稿料が入ると、ガスビルで食事を済まして洋画の一番館に足を運んだ。思いは尽きない。

藤本義一(ふじもと・ぎいち)
1933年大阪生まれ。放送作家やテレビの司会などでも活躍し、1974年に「鬼の詩」で直木賞を受賞。他に「蛍の宿」「はぐれ刑事」「贋芸人抄」など多数の著作がある。

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