NHKテレビの新シリーズに「五七五紀行」がある。五七五は俳句の代名詞だ。
その3回目は「日野草城」で、僕が案内人となった(平成12年6月放送)。相手役は将棋の女流名人で清水市代。この世界に疎い僕は、眼前に現われた美女に目を見張った。
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竣工したガスビルの遠望(1993年) |
わが師日野草城の文学散歩という訳で、青春期の京都、壮年期の大阪、晩年期の池田を三日がかりでビデオ撮影をした。草城は京都大学を出て、大阪海上火災に勤めた。主宰誌「旗艦」を創刊したのは昭和10年である。編集発行人の水谷砕壺は大阪ガスビルに職場をもっていた。そこでの重要人物の一人だったのだ。という訳で草城はガスビルに度々出入りしたのである。山口誓子も同様である。
僕は神戸の県立工業の建築科に学んでいた。既にして、俳句の途に入っており、俳句部を作って、夏休みにも登校して、仲間と夏行の猛訓練を敢行した。卒業前の建築見学に訪ねたのは、何とガスビルであり、NHK局舎であり、北浜の取引所であったりした。そのガスビルの無駄な装飾を廃した姿は、シンプルであり、モダンであって、御堂筋では最も魅力的な建物だった。
そこへ、俳用で出入りするようになったのは晴れがましくもあり、得意でもあった。
当時の草城は、サラリーマンの哀歓を多く詠った。
かじかめる俸給生活者の流
こひびとを待ちあぐむらし闘魚の辺
をとめらはやさしきベルをふたつづゝ
という訳で、無季句を、口語句を自在に操った新興俳句華やかなりし頃の草城作品に、僕たち若い者は痺れたものである。同じビルに先輩の井上草加江や長田喜代治らも勤めていたので、界隈の茶房やレストランでの刻を共に過ごした思い出も多い。高槻工兵隊に入ってからも、外出許可の日にはガスビルや御霊神社あたりを徘徊し、若いOL嬢の姿に憧れていた。
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ガスビル食堂絵はがき(1937年)左手前方に昭和6年再建の大阪城を望む |
そんなガスビルが、60年以上経ったにも拘わらず、今も新鮮さを失くしていないのは不思議である。名建築だけがもっているオーラであろうか。ロケはガスビルの片陰を歩いたに過ぎないが、視聴者から説明がなくともガスビルであることが、すぐ分かった。懐かしかった。との感想を貰った。因みに神戸新開地のガスビルも健在だ。ここにも俳人の笠原静堂が勤めていた。
